■日本ロケット協会稲谷会長の連載(ロケットニュースより)

 
日本ロケット協会 会長 稲谷 芳文 


宇宙のまがり角(6)
 

 今回は糸川先生の話しに戻ります.前々回のロケットの開発を個人の名前でやることの出来た時代が云々,と言う話しから,前回は別の方向へ脱線してしまいました.私が糸川先生のことを直接に知る由もないことは述べましたが,人の名前で語られるロケット云々という話しを,糸川先生自身はどういう風に思っていたのか,もう少し考えてみたいと思います.

その前に,少し前置きを.我々がプロジェクトの実行を考えるに当たって,どういうヤツがリーダや責任者をやるべきか,は大きな問題です.プロジェクトと言ってもピンからキリまでありますが,ここではロケットや衛星を開発して飛ばすプロジェクトをまずはイメージします.今風で言ういわゆるプロマネは,「言い出しっぺが最後までやるのが,最も動機づけの高い状態を保って,責任感を強く持ってやらせる方法だ」と言う考えがあります.現に我々の身近なところの宇宙科学のプロジェクトでは,そういう風に転がしてることが多い,と言えます.この逆で,雇われはダメよ,と言うこともあります.でもひょっとすると,この「言い出しっぺ方式」は,宇宙科学固有の,いわゆる「研究者」というわがままな類の人種の集団での方法なのかと思ったりもします.

ペンシルから始まってカッパなどの観測ロケットから「おおすみ」を上げたラムダに至る日本のロケットの黎明期に,糸川先生はこの辺りをどういう風に転がしていたか,ということを以下に少し想像してみます.これらの日本の固体ロケットのはじめの頃は,アメリカの「スカウト」というロケットを参考にしていた,という事を我々も聞かされたことがあります.でも実際に糸川先生が強く意識していたのはむしろ「ミニットマン」というICBMだったようです.

このミニットマンとは,同時期に少し先行していたアトラスやタイタンという液体エンジンのミサイルの時代に,コストや運用性を飛躍的に高めた全段固体の大陸間弾道ミサイルです.その名はずばり「一分男」で,一分で打てるロケットという象徴的な名の通り,当時のソ連も含め他を凌駕して,極めて革新的なシステムだったのだそうです.ミニットマンの機体規模は「おおすみ」を上げたラムダと,初期のMロケットの中間くらいのクラスです.だいたいペンシルのはじめが1954年で,ミニットマンはやはり56年頃から開発が始まって,初号機が61年くらいとのことです.糸川先生が東大を辞めたのは67年,おおすみは70年ですから,アメリカでも50年代後半に固体ロケットの推薬やら耐熱材料やら誘導制御やらのいろんな技術が出来て60年代初めのミニットマンやスカウトでやっと実用化したようです.少なくともはじめの頃は日本もそれほど大きな遅れもなくやってたんだなあ,とか,なんだかミサイルというのは何百機とか千機の単位で作るんだなあとかいろいろなことが分かります.

糸川先生達がロケットを始めたとき,どういう風にチームビルディングや責任者を決めていたのかは大変興味深いところですが,糸川カリスマのリーダーシップの元に,計画発案から実行の最後まで,言い出しっぺである糸川先生が全てリードしていたのかな,と何となく思っていました.ところが,「チャーチルの時代のリンデマンのイギリスのレーダ開発に関する顛末から,一人の天才に頼るより6人の凡庸のチームの方が望ましい」とか「ミニットマンの開発では,エド・ホールという人物の着想で立ち上げ,バーナード・シュリーバー中将と言う将校が後ろ盾となって動かし,開発が動いて初号機のときはサム・フィリップスというプロジェクトディレクタ・・」と言うように,天才的と思えても決してひとりの言い出しっぺに頼ったり,そのひとりが最後までやる,と言うのでなく,フェイズごとに最適な人でつないでいくことが,とても大事なことある,と糸川先生は書いています.

また,「大きな技術であればあるほど,それを最初に言い出した人の名前は消えてなくなるはずだ.最初にアイデアを出した人の名前が残っている様なモノはあまり大きな技術の変化ではない」とも書かれています.結果として周りがどう言うかは別にして,糸川先生自身はあまり人の名前でやるとか,言い出しっぺが最後までやる,というのとは反対のマインドセットだった,と知るべきでしょうか.実は糸川直系長友先生は,自ら構想して,企画して,計画を立ち上げたら,後の実行は誰か別の人にさっさと渡して,気がついたら次のことを始めて・・・と,先ほどの言い出しっぺがずっとやってる類の人からは文句を言われている(というか,実はうらやましがられている?)場面に接することもありました.今になって考えると,これは糸川先生の考えを実践していたのだった,が正しいのかも知れません.

いわゆるチームビルディングとか,リーダ論とか,宇宙の仕事で言うと,プロマネとはどういう人がやるべきで・・・などと言う議論は,優れて今日的課題であると同時に,ある意味で永遠の課題です.宇宙の仕事の仕方が成熟し,できあがった世界の仕事になって,サラリーマンの仕事になって,人の個性でやる部分がどんどんなくなって,云々と言う文脈での話とは,今日の糸川先生の話は少し違うことも含みますが,今との比較で日本のロケットの黎明期にどういう風にものごとがなされていたか,を相対化して見る話,ではあります.結果としての糸川カリスマ像は,実は周りが勝手に作ったことであって本人は全く違うマインドだった,と言うことなのかも知れません.次回ももう少しこの辺りのことについて考えてみたいと思います.

今月以上



バックナンバー
第1回 宇宙のまがり角(1)
第2回 宇宙のまがり角(2)
第3回 宇宙のまがり角(3)
第4回 宇宙のまがり角(4)
第5回 宇宙のまがり角(5)
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